寝不足ではあったが、明日からの仕事を楽にして朱莉と2人で沖縄観光をする為に航は仕事を頑張った。対象者を尾行し続け、ついに浮気の決定的瞬間を動画に収めることに成功したのだ。カメラをリュックにしまう航の顔には笑みが浮かんでいる。「よし、この証拠映像があれば依頼主は確実に有利な条件で離婚することが出来るだろう」小さく呟くと、周辺を伺いながら身を隠していた茂みの中から出てきた。空を見上げると大分太陽は西に沈み、沖縄の空がオレンジ色に変化している。「さて、帰るか」航はリュックの中に機材をしまうとその場を後にした——**** 朱莉は家で夜ご飯の準備をしていた。今日のメニューはキーマカレー。今朝の航は元気が無かった。ひょっとすると夏バテをしているのでは無いかと朱莉は思い、ネットで夏バテに効く料理が無いか調べた所、辛みのある料理が良いと書かれていたのだ。(航君は好き嫌いが無いって言ってたから、きっとこれも食べられるよね)フライパンで煮込んでいる間にサラダの準備をしていた時。朱莉の個人用スマホに着信を知らせるメッセージが入って来た。(誰からだろう? 航君かな?)朱莉はスマホを手に取り、その着信相手を見て驚きのあまりスマホを取り落しそうになった。相手は何と京極からである。(京極さん……ど、どうして……? 絵葉書は昨日投函したばかりだから届いているはずは無いし……)しかし、相手は何と言ってもあの京極である。朱莉は緊張しながらスマホをタップしてメッセージを表示させた。『こんにちは、朱莉さん。沖縄の暮らしはどうですか? 海に行って日焼けとかはしていませんか? ビッグニュースがあります。今はまだ言えませんが、待っていて下さいね』メッセージの内容はたったこれだけである。「ビッグニュース……待っていて下さい……?」朱莉はメッセージを読み返した。(京極さん……こんな意味深な書き方をされると不安な気持ちになってしまいます……)朱莉は溜息をついた。きっと今メールでビッグニュースとは何かを尋ねても、あの京極の事。はぐらかして答えてはくれないだろう。朱莉はすぐに返信をすることにした。『はい、お待ちしています』それだけ書いて、メッセージを送信した。それ以外に何を書けばよいのか朱莉には見当がつかなかった……。****18時半――「ただいま! 朱莉!」航が上機嫌
朱莉と航は向かい合わせで食事をしていた。航はキーマカレーが余程気に入ったのか、既に2杯目を食べている。「朱莉。明日だけど何時にここを出ようか?」「私は別に何時でも構わないよ。でも、出来ればゆっくり水族館の中を見たいな。あ、あのね……航君笑わないで聞いてくれる?」朱莉は恥ずかしそうに俯くた。「何だ? 遠慮せずに言えよ。別に笑ったりしないから」「本当? それじゃ言うけど……実は私この年になっても、まだ一度も水族館て行った事が無いんだ」「え? そうなのか? それじゃ俺と明日行くのが初めてなのか?」それを聞いた航は自分が情けないほど、口元が緩んでしまった。「あ……やっぱり笑ってる?」朱莉が上目遣いで航を見た。「い、いや。違うって。そうじゃないんだ。ただ……朱莉の初めての相手が俺だってことが嬉しくて……」航は言いかけて、途中でとんでもない発言をしてしまったことに気が付いた。(し、しまった……! マ、マズイ。今の言い方、捕らえようによっては……俺、恐ろしいことを口走ってしまったぞ!)恐る恐る朱莉を見る。けれど朱莉は何を考えているのか、美味しそうにキーマカレーを食べ続けている。(よ、良かった……朱莉が極端に鈍い女のお陰で助かった……)航は心の中で安堵し、明日のスケジュールを頭の中で考えた。美ら海水族館の開始時間は8:30からである。(開始時間に合わせていくと6時には出た方がいいかもしれないけど、それだと早すぎだからな……)「よし、朱莉。明日は9時に出よう。ちょっと出るには遅い時間かもしれないが、別に明日は水族館だけ行けばいい話だからな。他の場所はまた翌日に行こう」「うん」航の言葉に朱莉は笑みを浮かべて頷いた——**** そして、日付が変わって翌日の朝――夜の内に洗濯を済ませておいた朱莉はベランダに洗濯物を干していると、航が部屋から出てきた。「おはよう、航君。サンドイッチを作ったから一緒に食べよう」「ええ!? 忙しくなかったか? 朝っぱらからサンドイッチを作るなんて」「そんなこと無いよ。意外と簡単なんだから。さ、食べよ」朱莉が用意したサンドイッチは卵サンドに、ハムレタスサンド、そしてツナサンドだった。そしてそれを野菜ジュースと一緒に食べる。「うん、朱莉は本当に料理が上手だよな」航はサンドイッチを口にしながら朱莉を見つ
「君は一体誰だい? しかも彼女のことを『朱莉』って呼び捨てにしたね? どう見ても君は朱莉さんよりも年下に見えるけど?」京極はどこか挑戦的な目で航を見ている。「あ、あの……京極さん。彼は……」朱莉が慌てて口を挟もうとしたところを航が止めた。「いいよ、朱莉。俺から説明するから」すると再び京極の眉が上がった。(ふん。俺が朱莉って呼び捨てにするのが余程気にくわないらしいな)航は心の中で思いながら京極を見た。「俺は、安西航って言います。貴方のお名前も教えてくださいよ」航は口角を上げながら京極に尋ねた。(え……? 航君……京極さんの名前、知ってるんじゃなかったの……?)朱莉は心配そうな目で航を見ると、2人の目と目が合った。航は朱莉と目が合うと心の中で語り掛けた。(大丈夫だ、朱莉。俺に任せておけ)そして改めて京極を見た。「僕は京極正人と言います。東京では朱莉さんと親しくお付き合いさせていただいていました」京極は朱莉を見るとニコリとほほ笑んだ。「……」朱莉は困ってしまい、俯く。(京極さん……あの写真……姫宮さんと一緒に写った写真さえ見なければ貴方を不審に思うことは無かったのに……」朱莉のその様子に気づいたのか、京極が声をかけてきた。「朱莉さん? どうかしましたか?」「い、いえ。何でもありません」朱莉はとっさに返事をし、不安げに航に視線を移す。(朱莉……そんな心配そうな顔するな)そんな朱莉を見た京極は敵意を込めた目で航を睨んでいる。「君の名前は分かりましたけど何故、彼女を呼び捨てにするんです? それに何故朱莉さんと一緒にいるんですか?」「俺は今朱莉と一緒に住んでるからですよ」「何!?」京極が険しい顔で航を見る。「航君……!」しかし、航は涼しい顔で答えた。「俺は朱莉のいとこで、東京の興信所で働いているんです。今回は調査のために沖縄へやって来たので、朱莉の家に仕事が終了する期間まで居候させて貰ってるんですよ」それを聞いた京極は朱莉を見ると尋ねた。「今の話は……本当ですか?」「え……あ、あの……」朱莉が口ごもると航が言った。「本当は沖縄で安い宿泊所に泊まろうかと思っていたんですよ。いとこって言っても男と女ですからね。だけど、宿泊所が何所もいっぱいで親切な朱莉が居候させてくれたんです。そうだろう、朱莉?」(航君……。
「は、はい……すみません……」項垂れる朱莉に航は声をかけた。「朱莉、別に謝る必要は無いぜ」「! また君は……っ!」京極は敵意の込めた目で航を見た。「ところで京極さん。そろそろいいですか? 俺と朱莉はこれから2人で出掛けるんですよ。話ならメールでお願いしますよ。それじゃ、行こう。朱莉」航が朱莉を手招きしたので、朱莉は京極の方を振り向くと頭を下げた。「すみません。京極さん……。何故沖縄にいらっしゃるのかは分かりませんが、また後程お願いします」そして朱莉は航の方へ歩いて行こうとしたとき、京極に右腕を掴まれた。「!」朱莉は驚いて京極を見た。「朱莉さん……待って下さい」「朱莉!」航は朱莉の名を呼ぶと京極を睨んだ。「……朱莉を離せ」「……」それでも京極は朱莉の右腕を掴んだまま離さない。「あ、あの……京極さん。離していただけますか?」「嫌です」京極は即答した。「え?」朱莉は耳を疑った。「僕も一緒に行きます。いえ、行かせて下さい」「な、何を……っ!」航は京極を睨み付けた。「朱莉さん、お願いです……。僕もついて行く許可を下さい……」その声は……どこか苦し気だった。「あ、あの……私は……」朱莉にはどうしたら良いのか判断が出来ず、助けを求めるように航を見つめた。(朱莉は今すごく困ってる。俺に助けを求めているんだ……! きっと朱莉の性格では京極を断り切れないに決まってる。だったら俺が決めないと……)「……分かりましたよ。そんなについてきたいなら好きにしてください」航は溜息をついた。「……何故、君が判断をするんですか?」京極はどことなくイラついた様子で航に言う。するとすかさず朱莉が答えた。「わ、私は……航君の意見を優先します」「朱莉さん……」京極は未だに朱莉の右腕を掴んだまま、何所か悲しそうな目で朱莉を見つめた。「……もういいでしょう? 貴方は俺達と一緒に出掛けることになったんだから朱莉の手を離してくれませんか?」航は静かだが、怒りを込めた目で京極を見た。「分かりました、離しますよ」そして朱莉から手を離すと京極は謝罪してきた。「すみません。朱莉さん。手荒な真似をしてしまったようで」「いえ……別に痛くはありませんでしたから」朱莉は俯きながら答えた。そんな様子の朱莉を見て、航は声をかけた。「朱莉、助手席に乗
車内はしんと静まり返り、一種異様な雰囲気を醸し出していた。誰もが無言で座り、口を開く者は1人もいない。(くそっ! こんな空気になったのも……全ては何もかもあの京極のせいだ……)航はイライラしながらバックミラーで京極の様子を確認すると、彼は何を考えているのか頬杖を突いて、黙って窓の外を見ている。(本当に得体の知れない男だ。こんなことになるなら、あいつのことももっと調べておくべきだったな)その時ふと隣から視線を感じ、チラリと助手席を見ると朱莉が心配そうな顔で航を見つめていた。その瞳は不安げに揺れていた。(朱莉……そんな心配そうな目で見るな。安心しろ、俺が何とかしてやるから)心の中で航は朱莉に語りかけると言った。「朱莉、車内に何かCDでも積んであるか? もしあるなら車内で聞こうぜ」「え、えっとね……。それじゃ映画のテーマソング集のCDがあるんだけど……それでもいい?」「ああ、勿論だ。何てったって、この車は朱莉の車だからな」航は笑顔で言いながら、チラリとバックミラーで京極の顔を見ると、不機嫌そうな顔で腕組みをして前を向いていた。「これ……なんだけど。かけてもいい?」「ああ、いいぞ。それじゃ入れてくれるか?」航の言葉に朱莉は頷くと、CDを入れた。すると美しい女性の英語の歌声が流れてくる。「ふ~ん……初めて聴くけどいい歌だな。これも映画の歌なのか?」するとそれまで黙っていた京極が口を開いた。「朱莉さん、この映画は『オンリーワン』というハリウッドの恋愛映画ですね。この映画、朱莉さんも観たんですか?」「え、ええ……あの、テレビで夜中に放送した時に録画して観たんです」朱莉は躊躇いがちに答えた。すると京極は続ける。「前回は一緒に映画の試写会へ行くことが出来なくて残念でした。でも朱莉さん、また試写会のチケットは貰えるので、今度手に入ったらその時こそ御一緒して下さいね」「は、はあ……」朱莉は曖昧に返事をした。京極はにこやかに話しかけてくるが、朱莉は内心ハラハラして仕方が無かった。何故、京極は前回朱莉が行くことが出来なかった試写会の話を今、しかもよりにもよって何故航の前でするのだろうか?朱莉は恐る恐る航を見ると、航は何を考えているのか無言でハンドルを握りしめ、前を向いて運転している。(航君……)朱莉にとってはまさに針のむしろ状態だ。しかし
「朱莉さん……」京極が顔を歪めた。「朱莉……」航は朱莉の悲しそうな顔を見て激しく後悔してしまった。(くそ! あいつに煽られてつい、言い過ぎてしまった)「ごめん、悪かったよ朱莉。俺のことは気にするな。2人で出掛けるといい。俺は邪魔するつもりはないからさ」航は無理に笑顔を作った。(そうさ。所詮俺がいくら朱莉のことを思っても朱莉にとっての俺は所詮弟なんだから。だったら京極の方が朱莉にお似合いだろう。あいつは地位も名誉もある。俺とは違う大人なんだから)「航君……。私は航君と出かけたい……よ? だって航君と一緒にいると楽しいし」朱莉が声を振り絞るように言う。「朱莉……」すると後ろで何を思って聞いていたのか、京極が声をかけてきた。「安西君。悪いですが、そこのコンビニの前で止まってくれませんか?」「何か買い物でもあるんですか?」「……」しかし京極は答えない。(チッ……! 無視かよっ!)「はい、着きましたよ」航はコンビニの駐車場に停めると京極に声をかけた。「ああ、ありがとう。それじゃ、俺はここで降ります。あなた達だけで行って下さい」京極の口から思いがけない言葉が飛び出してきた。「え?」航は驚いて京極を振り返った。「京極さん?」朱莉も驚いている。「すみませんでした。安西君。朱莉さん。無理矢理ついて来てしまって。朱莉さんの気持ちも考えず、本当にすみません」京極は頭を下げると、車を降りた。「京極さん! あ、あの……私……」朱莉が声を掛けると、京極は寂し気に笑みを浮かべる。「朱莉さん……明日は……いえ、お願いです。明日は僕に時間を頂けませんか?」「あ……」(どうしよう……航君……)朱莉は助けを求めるように航を見た。すると航は肩をすくめる。「いいんじゃないか? 朱莉。京極さんと会えば。俺は明日仕事があるからさ」(え? でも、もう殆ど仕事は終わったって言ってたじゃない?)しかし、朱莉は気が付いた。それは航の気遣いから出た言葉だと言うことに。「分かりました。明日大丈夫です」「そうですか、ありがとうございます。それでは何所へ行くかは知りませんが、楽しんできてください」京極は笑顔で言うと車から頭を下げてコンビニへ向かって歩いて行った。その後ろ姿を見届けると航は言った。「朱莉、行こうか?」「うん……行こう」そして航は
高速道路を使って2時間程車を走らせ、朱莉と航は美ら海水族館のある海洋博公園へと到着した。「朱莉、ほら行くぞ」駐車場を出ると航は後ろを歩く朱莉に振り向いて声をかけた。「うん」朱莉は人混みの間を縫うようにして航の隣にやって来た。「それにしてもすごい人混みだね。平日なのに」「ああ、そうだな。この間は水族館の中には入らなかったけど、まさかこんなに人が来ているとは思わなかった。もうすぐ夏休みだって言うのにこの人混みじゃ夏休みになったらもっと混むかもな」「うん。駐車場も結構混んでいたものね」「よし、それじゃ行くぞ。朱莉、はぐれないようにな」言いながら航は思った。(朱莉が彼女だったら、はぐれないように手を繋いで歩くことも出来るんだけどな……。しかし朱莉は書類上人妻だ。そんな真似出来るわけないか)等と考え事をしていたら、再び朱莉を見失ってしまった。「朱莉? 何所だ?」航はキョロキョロ辺りを見渡すと、航のスマホに着信が入ってきた。着信相手は朱莉からであった。「もしもし、朱莉? 今何所にいるんだ!?」『今ね1Fのエスカレーターの前にいるの』「エスカレーター前だな? よし、分かった! すぐ行くから朱莉、絶対にそこを動くなよ!」航は電話を切ると、急いで朱莉の元へと向かった。「朱莉!」「あ、航君」朱莉がほっとした表情を顔に浮かべた。「すまなかった、朱莉。まさか本当にはぐれてしまうとは思わなかった」「うううん、いいの。こんなに混んでいれば仕方ないよ。私、それにあんまり出歩かないから人混みに慣れていなくて」「だったら……」航はそこまで言いかけて、言葉を切った。(駄目だ……手を繋ごうか……なんてとても朱莉に言える訳ない)「どうしたの航君?」朱莉は不思議そうな顔で航を見た。「い、いや。それじゃ、なるべく壁側を歩くか」「うん、そうだね」そして2人は壁側を歩き、順番に展示コーナーを見て回ることにした。「うわあああ~すごーい」朱莉が目を見開いて、声を上げた。「ああ、本当にすごいな。水族館は何回か行ったことがあるけど、こんな巨大水槽を見るのは初めてだ」航も感心して見上げる。朱莉と航は今、巨大水槽『アクアルーム』で巨大ジンベイザメや巨大なマンタなどが泳ぐ姿を眺めている。それはまさに目を見張るような光景で、朱莉はすっかり見惚れていた。そん
(え……? あ、朱莉……。それは……一体どういう意味なんだ!?)航は次の朱莉の台詞に期待しながら尋ねた。「あ、朱莉。何故俺だと楽しく感じるんだ?」「うん。それはね……航君だと気を遣わなくて済むって言うか、一緒にいて楽な人……だからかなあ?」「あ、朱莉……」(え……? こ、こういう場合俺はどう解釈するべきなんだ? 喜ぶべきなのか? それともがっくりするべきなのか? わ、分からねえ……やっぱり朱莉の気持ちが俺には分からねえ……)朱莉の発言に航は頭を抱えてしまうのだった—―****「残念だったな。あの水族館で食事出来なくて……」駐車場に向って歩きながら航が残念そうに言う。「うん。でも仕方が無いよ。だってあんなに大きな水槽を観ながら食事が出来るお店だよ? 誰だって行ってみたいと思うもの。でも、私は大丈夫。だってもう十分過ぎる位水族館を楽しんだから」朱莉は笑顔で答える。「また……きっといつか来れるさ」「そうだね。私は多分このまま明日香さんが赤ちゃんを産んで帰国する直前までは沖縄にいることになりそうだから」「朱莉…」朱莉の言葉に航は胸が詰まりそうになった。(そうだ……。俺は2週間後には東京へ帰らなくてはならない。いや、それどころか、大方依頼主の提示して来た証拠はもう殆ど手に入れたんだ。だからその気になれば明日東京に帰っても何の問題も無い……)だが、航は当初の予定通り3週間は沖縄に滞在しようと考えていた。それは朱莉を1人沖縄に置いておくのが心配だからだ。(いや、違うな。本当は俺が朱莉から離れたくないだけなんだ。朱莉にとって、俺は弟のような存在でしか無いのかもしれない。でも……それでもいいからギリギリまでは朱莉の側に……) 例え4カ月後に朱莉が東京に戻って来れたとしても、その時の朱莉は鳴海翔と明日香の間に出来た子供を育てていくことになるのだ。そうなると、もう航は子育てに追われる朱莉と会うことが叶わなくなるだろう。だから、それまでの間は出来るだけ東京行を引き延ばして、沖縄で朱莉との思い出を沢山作りたいと航は願っていた。「……」航は隣を歩く朱莉をチラリと見た。朱莉は周りの美しい風景を眺めながら歩いている。そんな朱莉を見ながら航は声をかけた。「よし、朱莉。それじゃちょっと遅くなったけど、何処かで飯食って行こう!」「うん、そうだね。何処で食
「翔さん、落ち着いて下さい。医者の話では出産と過呼吸のショックで一時的に記憶が抜け落ちただけかもしれないと言っていたではありませんか。それに対処法としてむやみに記憶を呼び起こそうとする行為もしてはいけないと言われましたよね?」「ああ……だから俺は何も言わず我慢しているんだ……」「翔さん。取りあえず今は待つしかありません。時がやがて解決へ導いてくれる事を信じるしかありません」やがて、2人は一つの部屋の前で足を止めた。この部屋に明日香の目を胡麻化す為に臨時で雇った蓮の母親役の日本人女子大生と、日本人ベビーシッター。そして生れて間もない蓮が宿泊している。 翔は深呼吸すると、部屋のドアをノックした。すると、程なくしてドアが開かれ、ベビーシッターの女性が現れた。「鳴海様、お待ちしておりました」「蓮の様子はどうだい?」「良くお休みになられていますよ。どうぞ中へお入りください」促されて翔と姫宮は部屋の中へ入ると、そこには翔が雇った蓮の母親役の女子大生がいない。「ん? 例の女子大生は何処へ行ったんだ?」するとシッターの女性が説明した。「彼女は買い物へ行きましたよ。アメリカ土産を持って東京へ戻ると言って、買い物に出かけられました。それにしても随分派手な母親役を選びましたね?」「仕方なかったのです。急な話でしたから。それより蓮君はどちらにいるのですか?」姫宮はシッターの女性の言葉を気にもせず、尋ねた。「ええ。こちらで良く眠っておられますよ」案内されたベビーベッドには生後9日目の新生児が眠っている。「まあ……何て可愛いのでしょう」姫宮は頬を染めて蓮を見つめている。「あ、ああ……。確かに可愛いな……」翔は蓮を見ながら思った。(目元と口元は特に明日香に似ているな)「残念だったよ、起きていれば抱き上げることが出来たんだけどな。帰国するともうそれもかなわなくなる」すると姫宮が言った。「いえ、そんなことはありません。帰国した後は朱莉さんの元へ会いに行けばいいのですから」「え? 姫宮さん?」翔が怪訝そうな顔を見せると、姫宮は、一種焦った顔をみせた。「いえ、何でもありません。今の話は忘れてください」「あ、ああ……。それじゃ蓮の事をよろしく頼む」翔がシッターの女性に言うと、彼女は驚いた顔を見せた。「え? もう行かれるのですか?」「ああ。実はこ
アメリカ—— 明日いよいよ翔たちは日本へ帰国する。翔は自分が滞在しているホテルに明日香を連れ帰り、荷造りの準備をしていた。その一方、未だに自分が27歳の女性だと言うことを信用しない明日香は鏡の前に座り、イライラしながら自分の顔を眺めている。「全く……どういうことなの? こんなに自分の顔が老けてしまったなんて……」それを聞いた翔は声をかける。「何言ってるんだ、明日香。お前はちっとも老けていないよ。いつもどおりに綺麗な明日香だ」すると……。「ちょっと! 何言ってるのよ、翔! 自分迄老け込んで、とうとう頭もやられてしまったんじゃないの? 今迄そんなこと私に言ったこと無かったじゃない。大体おかしいわよ? 私が病院で目を覚ました時から妙にベタベタしてくるし……気味が悪いわ。もしかして私に気があるの? 言っておくけど仮にも血が繋がらなくたって私と翔は兄と妹って立場なんだから! 私に対して変な気を絶対に起こさないでね!?」明日香は自分の身体を守るように抱きかかえ、翔を睨み付けた。「あ、ああ。勿論だ、明日香。俺とお前は兄と妹なんだから……そんなことあるはず無いだろう?」苦笑する翔。「ふ~ん……翔の言葉、信用してもいいのね?」「ああ、勿論さ」「だったらこの部屋は私1人で借りるからね! 翔は別の部屋を借りてきてちょうだい。 あ、でも姫宮さんは別にいて貰っても構わないけど?」明日香は部屋で書類を眺めていた姫宮に声をかける。「はい、ありがとうございます」姫宮は明日香に丁寧に挨拶をした。「それでは翔さん、別の部屋の宿泊手続きを取りにフロントへ御一緒させていただきます。明日香さん。明日は日本へ帰国されるので今はお身体をお安め下さい」姫宮は一礼すると、翔に声をかけた。「それでは参りましょう。翔さん」「あ、ああ。そうだな。それじゃ明日香、まだ本調子じゃないんだからゆっくり休んでるんだぞ?」部屋を出る際に翔は明日香に声をかけた。「大丈夫、分かってるわよ。自分でも何だかおかしいと思ってるのよ。急に老け込んでしまったし……大体私は何で病院にいたの? 交通事故? それとも大病? そうでなければ身体があんな風になるはず無いもの……」明日香は頭を押さえながらブツブツ呟く「ならベッドで横になっていた方がいいな」「そうね……。そうさせて貰うわ」返事をすると
琢磨に礼を言われ、朱莉は恐縮した。「い、いえ。お礼を言われるほどのことはしていませんから」「朱莉さん、そろそろ17時になる。折角だから何処かで食事でもして帰らないかい?」「あ、それならもし九条さんさえよろしければ、うちに来ませんか? あまり大した食事はご用意出来ないかもしれませんが、なにか作りますよ?」朱莉の提案に琢磨は目を輝かせた。「え?いいのかい?」「はい、勿論です。あ……でもそれだと九条さんの相手の女性の方に悪いかもしれませんね……」「え?」その言葉に、一瞬琢磨は固まる。(い、今……朱莉さん何て言ったんだ……?)「朱莉さん……ひょっとして俺に彼女でもいると思ってるのかい?」琢磨はコーヒーカップを置いた。「え? いらっしゃらないんですか?」朱莉は不思議そうに首を傾げた。「い、いや。普通に考えてみれば彼女がいる男が別の女性を食事に誘ったり、こうして買い物について来るような真似はしないと思わないかい?」「言われてみれば確かにそうですね。変なことを言ってすみませんでした」朱莉が照れたように謝るので琢磨は真剣な顔で尋ねた。「朱莉さん、何故俺に彼女がいると思ったの?」「え? それは九条さんが素敵な男性だからです。普通誰でも恋人がいると思うのでは無いですか?」「あ、朱莉さん……」(そんな風に言ってくれるってことは……朱莉さんも俺のことをそう言う目で見てくれているってことなんだよな? だが……これは喜ぶべきことなのだろうか……?)琢磨は複雑な心境でカフェ・ラテを飲む朱莉を見つめた。すると琢磨の視線に気づく朱莉。「九条さんは何か好き嫌いとかはありますか?」「いや、俺は好き嫌いは無いよ。何でも食べるから大丈夫だよ」それを聞いた朱莉は嬉しそうに笑った。「九条さんも好き嫌い無いんですね。航君みたい……」その名前を琢磨は聞き逃さなかった。「航君?」「あ、いけない! すみません、九条さん、変なことを言ってしまいました。そ、それじゃもう行きませんか?」朱莉は慌てて、まるで胡麻化すように席を立ちあがった。「あ、ああ。そうだね。行こうか?」琢磨も何事も無かったかの様に立ち上がったが、心は穏やかでは無かった。(航君……? 一体誰のことなんだろう? まさかその人物が朱莉さんと沖縄で同居していた男なのか?それにしても君付けで呼ぶなん
14時―― 朱莉がエントランス前に行くと、すでに琢磨が億ションの前に車を停めて待っていた。「お待たせしてすみません。九条さん、もういらしてたんですね」朱莉は慌てて頭を下げた。「いや、そんなことはないよ。だってまだ約束時間の5分以上前だからね」琢磨は笑顔で答えた。本当はまた今日も朱莉に会えるのが嬉しくて、今から15分以上も前にここに到着していたことは朱莉には内緒である。「それじゃ、乗って。朱莉さん」琢磨は助手席のドアを開けた。「はい、ありがとうございます」朱莉が助手席に座ると、琢磨も乗り込んだ。シートベルトを締めてハンドルを握ると早速朱莉に尋ねた。「朱莉さんは何処へ行こうとしていたんだっけ?」「はい。赤ちゃんの為に何か素敵なCDでも買いに行こうと思っていたんです。それとまだ買い足したいベビー用品もあるんです」「よし、それじゃ大型店舗のある店へ行ってみよう」「はい、お願いします」琢磨はアクセルを踏んだ――**** それから約3時間後――朱莉の買い物全てが終了し、車に荷物を積み込んだ2人はカフェでコーヒーを飲みに来ていた。「思った以上に買い物に時間がかかってしまったね」「すみません。九条さん……私のせいで」朱莉が申し訳なさそうに頭を下げた。「い、いや。そう意味で言ったんじゃないんだ。まさか粉ミルクだけでもあんなに色々な種類があるとは思わなかったんだよ」「本当ですね。取りあえず、どんなのが良いか分からなくて何種類も買ってしまいましたけど口に合う、合わないってあるんでしょうかね?」「う~ん……どうなんだろう。俺にはさっぱり分からないなあ……」琢磨は珈琲を口にした。「そう言えば、すっかり忘れていましたけど、九条さんの会社はインターネット通販会社でしたね?」「い、いや。俺の会社と言われると少し御幣を感じるけど……まあそうだね」「当然ベビー用品も扱っていますよね?」「うん、そうだね」「それでは今度からはベビー用品は九条さんの会社で利用させていただきます」「ありがとう。確かに新生児がいると母親は買い物も中々自由に行く事が難しいかもね。……よし、今度の企画会議でベビー用品のコンテンツをもっと広げるように提案してみるか……」琢磨は仕事モードの顔に変わる。「ついでに赤ちゃん用の音楽CDもあるといいですね。出来れば視聴も試せ
朝食を食べ終わり、片付けをしていると今度は朱莉の個人用スマホに電話がかかってきた。それは琢磨からであった。昨夜琢磨と互いのプライベートな電話番号とメールアドレスを交換したのである。「はい、もしもし」『おはよう、朱莉さん。翔から何か連絡はあったかい?』「はい、ありました。突然ですけど明日帰国してくるそうですね」『ああ、そうなんだ。俺の所にもそう言って来たよ。それで明日香ちゃんの為に俺にも空港に来てくれと言ってきたんだ。……当然朱莉さんは行くんだろう?』「はい、勿論行きます」『車で行くんだよね?』「はい、九条さんも車で行くのですね」『それが聞いてくれよ。翔から言われたんだ。車で来て欲しいけど、俺に運転しないでくれと言ってるんだ。仕方ないから帰りだけ代行運転手を頼んだんだよ。全く……いつまでも俺のことを自分の秘書扱いして……!』苦々し気に言う琢磨。それを聞いて朱莉は思った。(だけど九条さんも人がいいのよね。何だかんだ言っても、いつも翔先輩の言うことを聞いてあげているんだから)朱莉の思う通り、琢磨自身が未だに自分が翔の秘書の様な感覚が抜けきっていないのも事実である。それ故、多少無理難題を押し付けられても、つい言いなりになってしまうことに琢磨自身は気が付いていなかった。「でも、どうしてなんでしょうね? 九条さんに運転をさせないなんて」朱莉は不思議に思って尋ねた。『それはね、全て明日香ちゃんの為さ。明日香ちゃんは自分がまだ高校2年生だと思っているんだ。その状態で俺が車を運転する訳にはいかないんだろう。全く……せめて明日香ちゃんが自分のことを高3だと思ってくれていれば、在学中に免許を取ったと説明して運転出来たのに……』琢磨のその話がおかしくて、朱莉はクスリと笑ってしまった。「でもその場に私が現れたら、きっと変に思われますよね? 明日香さんには私のこと何て説明しているのでしょう?」『……』何故かそこで一度琢磨の声が途切れた。「どうしたのですか? 九条さん」『朱莉さん……君は何も聞かされていないのかい?』「え……?」『くそ! 翔の奴め……いつもいつも肝心なことを朱莉さんに説明しないで……!』「え? どういうことですか?」(何だろう……何か嫌な胸騒ぎがする)『俺も今朝聞いたばかりなんだよ。翔は現地で臨時にアルバイトとして女子大生と
「それじゃ、朱莉さん。次は翔から何か言ってくるかもしれないけど、くれぐれもアイツの滅茶苦茶な要求には答えたら駄目だからな?」タクシーに乗り込む直前の朱莉に琢磨は念を押した。「九条さんは随分心配性なんですね。私なら大丈夫ですから」朱莉は笑みを浮かべた。「もし翔から契約内容を変更したいと言ってきたら……そうだな。まずは俺に相談してから決めると返事をすればいい」するとタクシー運転手が話しかけてきた。「すみません。後が詰まってるので……出発させて貰いたいのですが……」「あ! すみません!」琢磨は慌ててタクシーから離れると、朱莉が乗り込んだ。車内で朱莉が琢磨に頭を下げる姿が見えたので、琢磨は手を振るとタクシーは走り去って行った。「ふう……」タクシーの後姿を見届けると、琢磨はスマホを取り出して、電話をかけた。「もしもし……はい。そうです。今別れた所です。……ええ。きちんと伝えましたよ。……後はお任せします。え? ……いいのかって? ……あなたなら何とかしてくれるでしょう? それだけの力があるのですから。……失礼します」そして電話を切ると、夜空を見上げた。「雨になりそうだな……」**** 翌朝――6時朱莉はベッドの中で目を覚ました。昨夜は琢磨から聞いた翔の伝言で頭がいっぱいで、まともに眠ることが出来なかった。寝不足でぼんやりする頭で起きて、着替えをするとカーテンを開けた。「あ……雨……。どうりで薄暗いと思った……」今日は朱莉の車が沖縄から届く日になっている。車が届いたら朱莉は新生児に効かせる為のCDを買いに行こうと思っていた。これから複雑な環境の中で育っていく子供だ。せめて綺麗な音楽に触れて、情操教育を養ってあげたいと朱莉は考えていた。洗濯物を回しながら朝食の準備をしていると、翔との連絡用のスマホに着信を知らせる音楽が鳴った。(まさか、翔先輩!?)朱莉はすぐに料理の手を止め、スマホを見るとやはり翔からのメッセージだった。今朝は一体どんな内容が書かれているのだろう? 翔からの連絡は嬉しさの反面、怖さも感じる。好きな人からの連絡なのだから嬉しい気持ちは確かにあるのだが問題はその中身である。大抵翔からのメールは朱莉の心を深く傷つける内容が殆どを占めている。(やっぱり契約内容の変更についてなのかなあ……)朱莉はスマホをタップした。『おは
「本当はこんなこと、朱莉さんに言いたくは無かった。だが翔が仮に今の話を直接朱莉さんに話したとしたら? 恐らく翔のことだ。きっと再び朱莉さんを傷付けるような言い方をして、挙句の果てに、これは命令だとか、ビジネスだ等と言って強引に再契約を結ばせるつもりに違いない。だがそんなこと、絶対に俺はさせない。無期限に朱莉さんを縛り付けるなんて絶対にあってはいけないんだ」琢磨は顔を歪めた。(え……無期限に明日香さんの子供の面倒を? それってつまり偽装婚も無期限ってこと……?)なので朱莉は琢磨に尋ねた。「あの……それってつまり翔さんは私との偽装結婚を無期限にする……ということでもあるのですよね?」(そうしたら、私……もう少しだけ翔先輩と関わっていけるってことなのかな?)しかし、次の瞬間朱莉の淡い期待は打ち砕かれることになる。「いや、翔の言いたいことはそうじゃないんだ。当初の予定通り偽装婚は残り3年半だけども子育てに関しては明日香ちゃんが記憶を取り戻すまで続けて貰いたいってことなんだよ」「え……?」「つまり、翔は3年半後には契約通りに朱莉さんと離婚して、子供だけは朱莉さんに引き続き面倒を見させる。しかも明日香ちゃんが記憶を取り戻すまで、無期限にだ。こんな虫のいい話あり得ると思うかい?」「……」朱莉はすっかり気落ちしてしまった。(やっぱり……ほんの少しでも翔先輩から愛情を分けて貰うのは所詮叶わないことなの? でも……)「九条さん」朱莉は顔を上げた。「何だい」「私、明日香さんと翔さんの赤ちゃんを今からお迎えするの、本当に楽しみにしてるんです。例え自分が産んだ子供で無くても、可愛い赤ちゃんとあの部屋で一緒に暮らすことが待ちきれなくて……」「朱莉さん……」「九条さん。もし、子供が3歳になっても明日香さんが記憶を取り戻せなかった場合は、翔さんは私に引き続き子供を育てて欲しいって言ってるわけですよね? それって……翔さんは記憶の戻っていない明日香さんにお子さんを会わせてしまった場合、お互いにとって精神面に悪影響が出るのではと苦慮して私に預かって貰いたいと思っているのではないでしょうか? だって、考えても見てください。ただでさえ10年分の記憶が抜けて自分は高校生だと信じて疑わない明日香さんに貴女の産んだ子供ですと言って対面させた場合、明日香さんが正常でいられると
明日香が10年分の記憶を失い、高校生だと思い込んでいる話は朱莉にとってあまりにもショッキングな話であった。「朱莉さん、大丈夫かい? 顔色が真っ青だ」「は、はい。大丈夫です。でもそうなると今一番大変なのは翔先輩ではありませんか?」朱莉は翔のことが心配でならなかった。あれ程明日香を溺愛しているのだ。17歳の時、翔と明日香は交際していたのだろうか? ただ、少なくとも朱莉が入学した当時の2人は交際しているように見えた。「朱莉さん、翔が心配かい?」琢磨が少し悲し気な表情で尋ねてきた。「はい、とても心配です。勿論一番心配なのは明日香さんですけど」「やっぱり朱莉さんは優しい人なんだね」(あの2人に今迄散々蔑ろにされてきたのに……それらを全て許して今は2人をこんなに気に掛けて……)「何故翔さんは九条さんに連絡を入れてきたのですか? それに、どうして九条さんから私に説明することになったのでしょう?」朱莉は琢磨の瞳をじっと見つめた。「俺も、2日前に翔から突然メッセージが届いたんだよ。あの時は驚いた。翔と決別した時に、アイツはこう言ったんだよ。互いに二度と連絡を取り合うのをやめにしようと。こちらとしてはそんなつもりは最初から無かったけど、翔がそこまで言うのならと思って自分から二度と連絡するつもりは無かったんだ。それなのに突然……」そして、琢磨は近くを通りかかった店員に追加でマティーニを注文すると朱莉に尋ねた。「朱莉さんはどうする?」「それでは私はアルコール度数が低めのお酒で」「それなら、『ミモザ』なんてどうかな? シャンパンをオレンジジュースで割った飲み物だよ。アルコール度数も8度前後で、他のカクテルに比べると度数が低い」琢磨はメニュー表を見ながら朱莉に言った。「はい、ではそちらを頂きます」「かしこまりました」店員は頭を下げると、その場を立ち去っていく。すると琢磨が再び口を開いた。「明日香ちゃんは自分を高校生だと思い込んでいるから、当然翔の隣にはいつも俺がいるものだと思い込んでいるらしいんだ。考えてみればあの頃の俺達はずっと3人で一緒に高校生活を過ごしてきたようなものだからね。それで明日香ちゃんが目を覚ました時、翔に俺のことを聞いてきたらしい。『琢磨は何処にいるの?』って。それで一計を案じた翔が明日香ちゃんを安心させる為に、もう一度3人で会いた
「九条さんが【ラージウェアハウス】の新社長に就任した話はニュースで知ったんです。あの時九条さん言ってましたよね? 鳴海グループにも負けない程のブランド企業にするって」「ああ、あの話か……。あれは……まあもう1人の社長にああいうふうに言えって半ば命令されたからさ。自分の意思で言った訳じゃ無いが正直、気分は良かったな」琢磨は笑みを浮かべる。「あの翔に一泡吹かせることが出来たみたいだし。初めはテレビインタビューなんて御免だと思ったけどね。大分、翔の奴は慌てたらしい」朱莉もカクテルを飲むと琢磨を見た。「え? その話は誰から聞いたんですか?」「会長だよ」琢磨の意外な答えに朱莉は驚いた。「九条さんは会長と個人的に連絡を取り合っていたのですか?」「ああ、そうだよ。実は以前から会長に秘書にならないかと誘われていたんだ。でも俺は翔の秘書だったから断っていたんだけどね」「そうだったんですか」あまりにも驚く話ばかりで朱莉の頭はついていくのがやっとだった。「それにしても朱莉さんも随分雰囲気が変わったよね? 前よりは積極的になったようだし、お酒も飲めるようになってきた。……ひょっとして沖縄で何かあったのかい?」琢磨の質問に朱莉は一瞬迷ったが、決めた。(九条さんだって話をしてくれたのだから、私も航君のこと、話さなくちゃ)「実は……」朱莉は沖縄での航との出会い、そして別れまでを話した。もっとも名前を明かす事はしなかったが。一方の琢磨は朱莉の話を呆然と聞いていた。(まさか朱莉さんが男と同居していたなんて。しかもあんなに頬を染めて嬉しそうに話してくるってことは……その男、朱莉さんに取って特別な存在だったのか?)朱莉が沖縄で男性と同居をしていた……その事実はあまりに衝撃的で、琢磨の心を大きく揺さぶった。「それでその彼とは東京へ戻ってからは音信不通……ってことなのかい?」内心の動揺を隠しながら琢磨は尋ねた。「はい。そうです。だから条さんとは連絡が取れて嬉しかったです。ありがとうございました」お酒でうっすら赤く染まった頬ではにかみながら琢磨にお礼を言う朱莉の姿は琢磨の心を大きく揺さぶった。「そ、そんな笑顔で喜んでくれるなんて思いもしなかったよ。でも……そうか。朱莉さんが以前よりお酒を飲めるようになったのはその彼のお陰なんだね?」「そうですね……。きっとそう